展示コーナー
展示室 宝物室

展示室

画像をクリックすると拡大して表示します。

001 六字名号〈左〉

1幅 掛軸装・紙本墨書 縦84.6㎝×横29.8㎝
「南無阿弥陀仏」と墨書された六字名号(蓮如上人筆)。戦国時代に本願寺教団を形成し、吉崎御坊も開創した蓮如上人は、紙本に墨書で草書体の六字名号を書き、門徒に与えた。蓮如上人に帰依した門徒はこうした六字名号を掛け、礼拝し念仏する生活を始めた。

002 六字名号〈右〉

1幅 掛軸装・紙本墨書 縦86.5㎝×横29.4㎝
「南無阿弥陀仏」と墨書された六字名号。「波切の名号」と言われ、蓮如上人筆と伝えられるが、筆跡の特徴からは実如上人(蓮如上人息男で本願寺第9代)筆の可能性が指摘される。いずれにせよ貴重な法宝物である。

003 正信偈文(双幅)

2幅 掛軸装・紙本墨書
〈左〉縦52.4㎝×横18.4㎝
〈右〉縦52.5㎝×横18.5㎝
親鸞聖人が制作した『正信偈』の文を抜き書き、蓮如上人が双幅に調えたもの。
1幅目は「本願名号正定業 至心信楽願為因 成等覚証大涅槃 必至滅度願成就」、2幅目は「如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言」と記されている。

トップへ

004 和讃(断簡)

1幅 掛軸装・紙本墨書 縦17.2㎝×横11.8㎝
親鸞聖人が制作した『和讃』(七五調で仮名交じり文の讃歌)は、蓮如上人の時代以降、『正信偈』とともに門徒の毎日の勤行に用いられた。大切な聖教として書き写され、場合によってはこのような断簡で分け与えられ伝来することもある。

「南无阿弥陀仏ノ廻向ノ 恩徳広大不思議ニテ
 往相回向ノ利益ニハ 還相回向ニ回入セリ」
(『正像末和讃』第50首)

005 御文(断簡)

1幅 掛軸装・紙本墨書 縦23.3㎝×横10.1㎝
「御文(おふみ)」とは仮名交じり文のお手紙のかたちでわかりやすく教えの内容を示したものである。蓮如上人はとくに吉崎時代から多く御文を書き、門徒に与えた。「御文」はその後も本願寺教団の聖教として用いられ、この御文断簡も戦国時代のものである。

「ソモ\/男子モ女人モ罪ノフカカラン
 輩ハ諸仏ノ悲願ヲタノミテモ
 イマノ時分ハ末代悪世ナレハ諸仏ノ御」
(『五帖御文』5帖第4通目の冒頭)

トップへ

006 教如上人御消息(年不詳八月朔日付)

1巻 巻子装・紙本墨書 縦17.4㎝×横73.4㎝
東本願寺の創立者である教如上人(本願寺第12代)が8月1日付で、越前坂北郡細呂宜郷吉崎と加賀江沼郡の門徒衆にあてて出した「御消息」(おてがみ)。懇志金の上納に対して御礼を述べるとともに、仏恩報謝のため称名念仏することが肝要と伝えている。

007 教如上人御消息(年不詳八月廿八日付)

1巻 巻子装・紙本墨書 縦17.4㎝×横73.4㎝
東本願寺の創立者である教如上人(本願寺第12代)が8月1日付で、越前坂北郡細呂宜郷吉崎と加賀江沼郡の門徒衆にあてて出した「御消息」(おてがみ)。懇志金の上納に対して御礼を述べるとともに、仏恩報謝のため称名念仏することが肝要と伝えている。

008 教如上人御消息(慶長九年閏八月十六日付)

1巻 巻子装・紙本墨書 縦17.8㎝×横54.2㎝
教如上人が閏8月16日付で、越前坂北郡細呂宜郷吉崎と加賀江沼郡(御消息では「ヨネマノ郡」)の門徒衆にあてて出した「御消息」。「閏八月」から年次が慶長9(1604)年と確定できる。内容は006・007と同じく懇志への御礼と法義のたしなみを説くものである。

009 宣如上人御消息(年不詳七月二十五日付)

1巻 巻子装・紙本墨書 縦17.9㎝×横90.0㎝
東本願寺第13代宣如上人(教如上人三男)が7月25日付で、「越前坂北郡 加賀江沼郡 吉崎所々 志中」にあて、懇志への御礼と法義のたしなみを伝える「御消息」。東本願寺と越前国坂北・加賀国江沼の両郡に広がる吉崎御坊門徒との結びつきが知られる。

010 宣如上人御消息(年不詳八月二十日付)

1巻 巻子装・紙本墨書 縦16.6㎝×横81.1㎝
東本願寺第13代宣如上人(教如上人三男)が8月20日付で、「吉崎惣同行衆中」にあてて出した「御消息」。009と同じく懇志への御礼と法義のたしなみを説く内容である。なお、009・010ともにまったく同文同筆の「御消息」も所蔵され、興味深い。

トップへ

011 吉崎御坊絵図

1幅 掛軸装・絹本着色 縦123.3㎝×横55.0㎝
吉崎御坊の全景を描いた古絵図を昭和52(1977)年に写したもの。山上の御堂から大門、参道両側に立ち並ぶ多屋・宿坊を詳しく描くのみならず、さらに吉崎山の周辺風景までが知られる絵図。こうした吉崎御坊へ蓮如上人の教えを聞きに門徒民衆が多く集まった。

012 古面(嫁おどしの面)

1点 木製・彫面 縦26.0㎝×横19.0㎝
蓮如上人の説く念仏の教えを信じる嫁の吉崎参詣を、鬼の面をかぶって脅かし妨害しようとする姑が、鬼の面が取れなくなり、蓮如上人の教えを聞いて懺悔し、鬼の面がとれるという説話「嫁威肉附面(よめおどしにくづきのめん)」が吉崎に伝えられる。

トップへ

宝物館

宝物館・太鼓堂の由来

この建築物は、吉崎別院本堂建築に先立つ1745年(延享2)に越後下関の関三右エ門により大工小屋として建てられました。それ以来約270年屋上のそびえる太鼓堂は、名古屋城の櫓と同様式の建て方にて偉容を誇り、江戸時代には刻を報せる役割を果たし、付近の村民に親しまれました。明治時代に一時期は、吉崎小学校として約60名の子供たちの学び舎にもなり、昭和になって現在の宝物拝観所として、広く一般に無料開放されるようになりました。昭和23年の福井地震にも崩壊せず、現在に至っています。

開館時間 9︓30~16︓00(12︓00~13︓30は昼休み)
休館日  1月1日~2月28日

法宝物

蓮如上人絵伝

2幅 掛軸装・絹本着色
〈左〉縦126.9㎝×横57.3㎝ 〈右〉縦127.0㎝×横57.4㎝
 蓮如上人の生涯をさまざまなエピソードをまじえて伝えるもので、全4幅中前半の2幅のみが現存する。1幅目は誕生から大谷本願寺破却まで、2幅目は北陸下向から吉崎御坊繁昌までを描く。明治・大正期の政策と推定され、描き方に地域色もうかがわれる。

見玉尼影像

1幅 掛軸装・紙本着色
見玉尼は蓮如上人の次女で、吉崎御坊において文明4(1472)年に往生を遂げた。娘に先立たれた蓮如上人の心情が同年8月22日付の御文(帖外)に記されている。見玉尼の往生の際には不思議な出来事があったとされる。吉崎山上には見玉尼の墓がある。

トップへ

本光坊了顕木像

1躯 木造
文明6年(1474)3月28日に火災で燃える吉崎坊舎に置き忘れた『教行信証』証巻を本光坊了顕が取りに入り焼死したが、その遺体の腹部に『教行信証』証巻が収め守られていたという「本光坊腹籠り血染めの聖教」説話がある。吉崎山上には本光坊の墓がある。
一、蓮如上人おかたみ七條袈裟
一、蓮如上人御依用五條袈裟
一、古渡釋迦像
一、蓮如上人御真筆六字の御名号
一、羅漢図
一、彰如上人(句仏上人)画賛
一、火中投身殉教僧 本光坊了顕師真像
一、蓮如上人御手植御花松材 石山観世音菩薩御真像
一、九谷焼大燈籠
一、汐越の松
一、教如上人御消息
一、宣如上人御消息
一、蓮如上人四幅の御絵伝
一、蓮如上人御影道中御輿・御輿車
  其の他

トップへ