吉崎東別院とは
吉崎東別院イメージ

正式名称を「真宗大谷派吉崎別院」(しんしゅうおおたにはよしざきべついん)と言い、地元では古くから「東別院」(ひがしべついん)と呼ばれています。蓮如上人が建立された坊舎跡地(通称:御山(おやま)現在は国指定史跡)の眼下に建つ木造建ての寺院です。今でも蓮如上人の由緒地に建つ寺院として、毎年遠近を問わずにたくさんの参詣者で賑わいます。
教えは親鸞聖人(しんらんしょうにん)を宗祖とする「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)で、京都市にあります「真宗本廟(しんしゅうほんびょう)(通称、東本願寺)」を本山とする「真宗大谷派」(しんしゅうおおたには)のお寺です。

吉崎東別院のはじまり

1465年(寛正6) 比叡山の僧徒に大谷本願寺(現京都市東山区)を破却された蓮如上人は、一時、近江堅田本福寺(現滋賀県大津市)などに身を寄せる。
1471年(文明3) 上人、吉崎の地に移り坊舎を建立する。
文明5年9月の『御文』には、「文明第三初夏中旬ノコロヨリ江州志賀郡大津三井寺南別所辺ヨリナニトナク不図シノヒイテ丶越前加賀諸所ヲ経廻セシメオハリヌ。ヨテ当国細呂宜郷内吉崎トイフコノ在所スクレテオモシロキアヒタ、年来虎狼ノスミナレシコノ山中ヲヒキタイラケテ、七月廿七日ヨリ、カタノコトク一宇ヲ建立シテ、昨日今日トスキユクホトニ、ハヤ三年ノ春秋ハオクリケリ。」とある。上人がこの地を選んだ理由の一つに朝倉氏寄進説(『朝倉始末記』)があるが、最近では『大乗院寺社雑事記』によって、川口荘細呂宜郷を領有する奈良興福寺の大乗院門跡経覚と上人との血縁関係、および細呂宜郷別当であった和田本覚寺などの勧誘によるものとする説が有力となっている。また吉崎が越前・加賀両国の守護勢力からの圧力を比較的受けにくい国境の地であることも、その理由の一つに挙げられている。
上人在住当時の坊舎の規模は不明だが、「吉崎山絵図」(松平文庫蔵)によると、四面四間の礎石が記され、現在その位置に9個の礎石が残る。また、坊舎付近には「多屋」と称する参詣者のための宿坊が建ち並んで寺内町が形成されていたようである。
1473年(文明5) 『正信偈』、『三帖和讃』を開板して布教活動に努める。
上人の精力的な布教活動によって、当時の三門徒系寺院や、高田系寺院などが本願寺系に転じて、これらの寺院が門徒衆の拠点となっていたようである。その結果、北陸一帯に急速に本願寺教団が形成され、やがて一向一揆蜂起の基盤となる。
1474年(文明6) 南大門付近の多屋から出火、坊舎および多屋が焼失する。
ただちに仮堂は建てられるが、後の1506年(永正3)、越前に侵攻した加越の一向一揆勢を撃破した朝倉氏によって、坊舎は完全に破却され以後廃坊となる。
文明の一揆が蜂起する。
加賀での本願寺門徒と高田門徒の争いが、守護勢力間の対立に連動する形となる。この戦いに勝利した加賀の一揆は、守護富樫政親を擁立し、その下で国内の秩序維持につとめる。
1475年(文明7) 上人、吉崎を退去する。
一揆の一部が守護・富樫政親の家臣と争い、敗れる事件が起きる。
以降、守護による門徒衆への弾圧が始まる中、事態の鎮静化を図るため、また身の危険を回避するために海路を利用して若狭・摂津を経て河内出口に入る。
1596―1615年
(慶長年中)
本願寺が東西に分立すると、吉崎門徒の大半は東本願寺に帰した。東本願寺の教如上人は慶長16年に、蓮如上人のご影像に裏書染筆して惣道場講仏とし、金津永宮寺を中心に門徒達は1615―24年(元和年中)より毎年3月25日の蓮如忌日に吉崎山上(坊舎跡地)に仮屋を建て、ご影像を掛けて法事を勤めていたとされている。
1673年(寛文13) 東本願寺が吉崎山上への本堂建立を福井藩に願い出る。
これに反発した西本願寺が異議を申し出て、東西両本願寺の争論へ発展する。福井藩はこれを幕府の裁定に委ねる。
1677年(延宝5) 幕府の裁定が下り、「吉崎山上ヘ寺再興之企之時、公儀へ届無之段東方越度ニ而候事」「東方ヨリ三月廿五日之法事七十年以来無懈怠相勤候ヲ、西之旧跡ト存候ハハ可相改処、其通ニ而差置候儀越度ニ而候事」などとし、「論所之旧跡依為要害地破却被仰付候」
と命じている。山上は要害の地であるとの理由で、両派ともに蓮如上人ご旧跡への本堂建立は禁止され、両派の吉崎御坊は山下に建立されることになる。後の1882年(明治15)吉崎山上は東西両派の共有地として定められる。
1721年(享保6) 本山掛所吉崎御坊を建てる。
1747年(延享4) 本堂を再建し、現在の真宗大谷派吉崎東別院となる。

【参考文献】

  • 『近世宗教社会論』(吉川弘文館)
  • 『近世の宗教組織と地域社会』(吉川弘文館)
  • 『図録 蓮如上人余芳』(本願寺出版社)
  • 『別院探訪』(東本願寺出版部) など

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